お金がお金を産んで、増殖していく商品としてのお金。そのシステムが頭では理解できても、どうしても腑に落ちないのです。じゃぁそのお金はどこから来るの?
エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」
ミヒャエル・エンデの「モモ」を御存知の方は多いと思います。
時間泥棒である灰色の男たちに「お金」を感じた方々も多いのではないでしょうか。
この本は1999年5月のNHKのドキュメンタリーから生まれました。
生きていく以上避けて通れないお金の問題。私たちの喜びや幸せ、第三世界の飢えや貧困もお金の存在と密接に繋がっています。
詳しいことは読んでいただくことにして、私が感じたことはお金がお金を産み、増えていくシステムというのは恐怖と不安、不信に基づいた思想であるということです。
もう何千年も前から人々は分業で働くことをしてきました。自分でパンを焼くより、得意な人に焼いてもらったほうがコストが安く美味しいのです。その代わり自分はスーツを仕立てます。パン屋さんや他の人がそれを着るわけです。その思想は友愛です。他の人への奉仕です。そういった労働には喜びがあります。
それを便利に成り立たせるために人間はお金を発明しました。それなのに私たちはいつの間にかそれを見失ってしまったのですね。まるでお金に支配されて、お金のために仕事をしています。でも本当はお金は私たちが使っていた道具だったはずです。
この本ではそれを変える為の試みが紹介されています。時間とともに減価するお金、地域通貨の実践。それらはそれぞれの地域に経済的な活性化をもたらし、かつ喜びと奉仕をもたらしている結果が語られています。それらは絵空事でなく実現可能なシステムなのです。
何千年も前から自然発生してきた現在のシステムを変えることは困難でしょう。私だって実際病気になったらどうしよう、働けなくなったらどうしようと思います。
それでも人は理想を忘れてはいけないと思うのです。
エンデは言います。
「お金は人間が作ったものです。変えることが出来るはずです」
一年半ほど前、他のブログで書いた記事を引っ張り出してきた。あの頃、10年以上前に組んでいた100万円の定期預金に利子が付いたものと、手元にあったいくらかを足してアパートを借り、引越しをして仕事を探して。その貯金も20万を切って先行き不安だった。派遣社員で子どもを養うという身分は年末年始やゴールデンウィークを含む季節になると干上がりそうになってしまう。少しの歯車が狂ってしまえばそれでおしまいだった。
それだけじゃない。昇給するわけでなく将来に対する希望の持てない仕事だとわかっていても、せざるを得ない状況というのがあった。
秋葉原の事件を考えてみるに、ある意味起こって当然とも思える。派遣と言うのは人を消耗品扱いするシステムだ。そのことを身に染みて思う。雇う側は誰でも良いのだし、その程度の仕事なのだもの。期間が決まっているわけではなく、延延と更新されていくだけの長期派遣だって同じことだ。一緒に働いている人と身分が違うってことなのだ。自分が不安定な契約下で働いて、その上前を隣にいる社員が撥ねている。当の本人たちにそんな意識が無いから、なおさら始末に負えない。そういうことなのだ。
どうも犯人の心情になんとなく共感してしまう。そういう境遇を抜けたくてもそこを抜けるのは本当に大変だと言うのがわかっているから。このことがきっかけになって派遣法などが変われば良いのだけれど。
だから人を殺していいということにはちっともならないけれど、その閉塞感ややりきれなさがわかるから。
じゃぁそのお金はどこから来るの?
上の記事ではテーマの本質からそれるので書かなかったが、最終的には第三世界で飢えて死んで行く子どもたちの親から掠め取った利息なのだ。これは本当に事実なのだ。初めてそれを知ったとき私はしばらく立ち直れなかった。
それでもなんとなく私は銀行に微々たるお金を預け、もっと微々たる利息を貰っている。
微々たる金額でもやっぱり私は飢え死にしていく子どもの親からの上前を撥ねて暮らしているんだ。
社会の構造がそういう風になっているから仕方が無いのだけれど、知らないうちに加担させられているのがたまらなかった。そういう意味で私は無差別殺人に加担していることになる。
物理的にナイフで殺された被害者、加害者と言われる犯人、未だに貧困のために3秒に一人死んでいる第三世界の子どもたち。私にとっては等しく被害者に思える。
上で紹介したお金がお金を生むシステムもこの先変わらないだろう。
世の中を動かしているのは資本という力を持った人たちなのだから。
私には目の前のこと一つ一つしか出来ない。そうして自分と子どもたちのことだけで精一杯なのだ。いろんなことがもどかしく、口惜しい。
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