神社の木の枝におみくじが結ばれている光景と変わらない。
そこには普遍的な人間の習性とでもいうべきものが詰まっているのだった。それは
「願い」
運とか神などに願うことしか出来ないことが確かにある。
1968年にこの壁をイスラエルが奪還して以来、幾多の紙切れが押し込まれてきたのだろうかと思って私は唖然としていた。
これはいったいどうするのだろう。
15年来の疑問が、やっと今朝氷解して良かった。
ラビ(指導者)が取り出して処分するらしい。まぁそうだろうな。
ユダヤ人たちが身体をゆすり、祈りをささげている壁はエルサレム神殿の唯一の名残だ。壁の向こうは高くなっていてそこに岩のドーム(イスラム教の礼拝堂)がある。一見するとイスラム教徒の足元でユダヤ教徒が祈っているような光景に見えてしまう。
だだ神殿を持たないユダヤ教徒にとってはこの単なる壁が唯一の神殿の名残だし、ここで祈るのは自然なことなのだ。
聖典によればこの岩の上に祭壇を築けと言ったのは神なのだから、その岩の上に他の宗教の礼拝堂があるのはやっぱり納得がいかないのだろう。
唯一神なのだからどこで祈ってもいいような気がする。全能神なのだから何も紙に書かなくても願いは分かるはずだ。神自ら偶像を否定しているのだから、この壁は象徴であって壁そのものを拝んでいるわけじゃない。
もっと言えばユダヤ教徒イスラム教は兄弟の宗教なのだから、何故いがみ合うのか理解しがたい。兄弟と言えば親は同じ。アラーの神もヤーヴェの神も呼び名が違うだけでそんなに違うわけじゃなしと思う。ママと呼ばれるか、お母さんと呼ばれるか、実体は同じなはずなのだが。
それでも人間の思いは理屈じゃない。親の遺産を巡っての骨肉の争いなんて掃いて捨てるほどある。骨肉だからこそ許せない、譲れない。
うちだって朝から兄弟げんかだ。
「願い」やっぱり願うことしか出来ないことはある。記事によれは今週末は過ぎ越しの祭りだそうだ。
どうか総ての人が災いから逃れ、守られますように。総ての人が平安でありますように。
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